社長のコラム


健康・文化的・最低限度

2024.6.30

いまの朝ドラ「虎に翼」は、発表されたばかりの日本国憲法14条に河原の主人公が感銘を受けるシーンから始まりました。

いわく「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

はたしてこのような日本になっているでしょうか。

これに続く14条の2項には「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」とあります。「貴族」という階級に所属している人は、今日、ほとんど見聞きしませんが、マスコミの報道を信じるかぎりにおいて、「華族」すなわち華麗なる一族の方々は、しかし、あれから80年を経た今でも、やんごとなき生活を送っていらっしゃいます。


四国のある会社の創業家の一族に生まれた人が、カジノで106億円も負けたことがニュースになりました。そんな一族の一員でなければそんなに失わなくてもよかったはずです。

それは「華族」じゃないじゃないかと言われると、それはそうかもしれません。

続いて14条の3項には「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する」とあり、日本語の文章として普通に読解すると、親の七光りなんてあってはならない、と建て付けられています。

さすがにここまできますと、あべこべがすぎるのではないでしょうか。親の受けた栄典が子どもや孫に影響を与えなかった事例を、これまで私は知りません。


憲法と現実が乖離している話は9条の専売特許ではありません。89条もあります。

いわく「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」

私立学校には、私学助成金という税金が流れています。少子化に対抗した教育の無償化という流れもあります。

学校を運営する団体やその事業に「公金」を注ぎ込んでも89条に抵触しない、「公の支配に属」するから大丈夫とのことです。文科省の言うことを聞かない外国人学校もそうなのでしょうか。学生運動が盛んだったころの大学もそうだったのでしょうか。


日本語をそのまま読むと、よしんば「公の支配」を受けたとしても、宗教団体に使わせるのはダメだと書いてあるように受け取れます。

仏教大学はじめ僧侶になるための勉強をする学校はいくつもあります。キリスト教その他の宗教のための私立学校もあります。そこで学ぶことは、当然、その「宗教上の組織若しくは団体」を「維持」することにつながるでしょう。

すっかり前段が長くなりました。

別に華族や貴族に類する人たちが都市伝説でなくてもいいし、教育のために税金を使っても、学問の自由も結構なのですが、つまり、義務教育から教えられた憲法というものを、これまで聞きかじってぼんやり見えてきたところは、酒のツマミにはなってもアテにならない話だなということでした。


血の中に入りこんで全身を流れるアルコールの成分が次第にその濃度を増すと、いいや、いいのもあるよ、捨てたもんじゃないよと、のたうち回ってのたまう人が現れます。25条です。

いわく「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」 と。どんな生活でしょう。

「健康」とは、主に肉体的な話で、心身が病気でない状態を言うのでしょう。「文化的」とは、あさましくなくて人間らしい状態で、これは精神的な話でしょう。「最低限度」とは、物質的な話で、欲しいものが手に入る状態、お金に困らないことを言うでしょう。

私には理解できません。この3者、どれかを立てればあとの2つが立たなくなる関係にあるからです。


食べて飲んで眠って健康で、これだけで十分だという人は、それは動物的であって、そこに深遠な文化の香はたゆたいません。

文化的であろうと物欲から離れ、精神的に高邁な人は、最低限度の生活もままなりません。

最低限度の生活をしようと仕事を頑張る人は、ある程度の健康を犠牲にしなければなりません。

結局、真に健康で文化的な最低限度な生活とはユートピアのようなもので、そんなところなんてどこにもなく、したがってそんな権利を所有しても行使しようがないのです。健康を害さない範囲で、そこそこまっとうに働いて、お金をもらって生きていく、という結論は、酒のツマミに身につまされる話でしかないのでした。

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