月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。芭蕉は「おくのほそ道」の旅をそう始めました。人生は旅であり、人間は旅人であります。
旅をテーマにしたフィクションもあまたあります。
なかでも長い旅をしたのは、フーテンの寅さんでしょう。映画「男はつらいよ」のシリーズ48作はすべて、旅をすみかとする寅さんが、旅をしているシーンで始まり、また新しい旅に出るシーンで終わります。
シリーズは今日までに50作を数えますが、寅さんの旅立った後の2作をカウントしない流派です。
好むと好まざると、人は、生まれたときに旅を始め、その旅の途中を生きています。
自分探しの旅という手垢にまみた言葉にも、旅というものの本質が表れています。
旅はつまり人生の縮図、旅をすることで、自分の現在地と自分の生きている世界とを俯瞰できます。
旅に出て、ひとり自分と向き合うことで、ようやく、これまでの自分とこれからの自分とに思いを馳せられるかもしれません。
古代ギリシャの学者は「汝(なんじ)自身を知れ」と自らに言い聞かせていたそうです。
数百万種の生物が存在しましても、自分を見つめることができるのは人間だけと言われます。数百万年のいにしえに袂を分かったチンパンジーにもできない芸当なのです。
それがどれだけ素敵なことか、旅人は、ふと気付くのでしょう。「男はつらいよ」第16作のワンシーン、大学で研究に打ち込むマドンナに、寅さんは言いました。「勉強はなんのためにするのか・・・己を知るためよ」
けだし名言です。学問というものは、本来、そういうものでなければなりません。
その「己を知るための学問」と真っ向から対立するのが「実学の精神」です。
実学とは、富と名声を得るための学問です。もちろん悪いはずはありませんが、そこにばかり留まっていれば、そんなことばかりしか考えられない「おのれ」を知ることはできない、道理でしょう。
8月の下旬、ひとり信濃路を訪ねました。「さよならはいつまでたっても、とても言えそうにありません」と狩人は、あずさ2号で旅立ちましたが、自らを省みる旅をしようとする身に特急は不要です。
小淵沢(こぶちざわ)で次の列車を待つこと1時間余り、「小諸(こもろ)なる古城のほとり、雲白く遊子(ゆうし)悲しむ」と藤村(とうそん)の詩を口遊みながら、篠ノ井(しののい)線に入りました。
松本を過ぎて山の中、持参した書籍を開いたままついうとうととしていると、突如、列車がバックしましまた。
姨捨(おばすて)駅。千曲川から遠く善光寺平を望む車窓の風景は、なんともいい景色でした。素晴らしい出逢いでした。
もう少しこの風景を見ていたい。その思いも空しく、バックしていた列車は一旦停車し、再び前進を開始しました。
出逢いがあれば別れがある、旅はまさに人生そのもの、上諏訪で仕入れた4合瓶を逆さにすると、1滴、2滴、舌の上にひんやりとした感覚が生まれてやがて消えました。この瓶ともお別れ、人生足別離、さよならだけが人生であります。
実学の精神を標榜して私立大学を創設した明治の大先覚者は、かつて富の象徴たる高額紙幣の肖像画でした。
実学むべなるかな。
天下のアレキサンダー大王に、そこ日向ぼっこの邪魔どいてくれと言ったギリシャの学者、それは実学ではない学問であったに違いないが、それではたしてどんな汝を知ったのだろう。それはどんな学問だったのだろう。上諏訪の銘酒と列車の振動とあいまって、思考回路も呂律も回らない中、想像するのは楽しい時間でありました。
旅の道すがらに、とりとめのないことを考える、皆さんにもぜひお勧めしたい高尚な趣味だと思っています。
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