五七調で読むか七五調で読むか、それで意味の変わる一首がありますという話の続きで、今回はこちらです。
奥山にもみじ踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき
七五調で読む人は「奥山にもみじ踏みわけ鳴く鹿の」で一区切りします。いわゆる鹿が山奥にいます。地面には赤や黄色に染まった落ち葉が散り積もっています。カサカサとそれらの上を四本足で歩いて、ぴいと鳴く状況です。
その鳴き声を聞いた私はもの悲しい気分になった。みなさんもきっとそうでしょう。共感してもらえるでしょう。という意味の歌になります。
これに対して、五七調で読む人は「奥山にもみじ踏みわけ」で一区切りします。
いわゆる人が山奥にいます。紅葉の季節は終わろうとしており、落葉広葉樹はあらかたの葉を散らせて寒々と立っています。サクサクと乾いた音を立てながらその上を二本足で歩いています。
そして「鳴く鹿の声聞くときぞ」でもう一区切りします。そんなに遠くない場所で、鹿が鳴いている状況です。
その鳴き声を聞いた私はもの悲しい気分になった。紅葉狩りを思い立ってわずかに時期を外してしまったけれど、それで望外の秋の情感でした。という意味の歌になります。
二つの違いは端的に、踏みわけた主体であります。七五調の方は鹿であり、五七調の方は人です。もみじを踏んでいる足は、七五調は四本、五七調なら二本です。どちらがより適切でしょうか。
以前からこの話題は議題になって、人だ、いや鹿だ、と議論した江戸時代の記録が残っているそうです。
現代、ネットを渉ると「鹿」が多数派のようです。もみじの上を歩く鹿、なるほど花札の図柄にもあって、もみじと鹿とは近しいのです
けれども鹿の声はどのくらい届くのでしょう。奥山で鳴いている鹿の鳴き声が、里にいる人に聞こえるのでしょうか。
想像で詠んでいるのだから、本当に鹿の鳴き声を聞いていなくてもいいだろう、という意見もあります。
心あてに折らばや折らむ初霜の置き惑わせる白菊の花
霜が降りて真っ白になったところに咲いている白い菊の花を摘もうとするときには当てずっぽうに摘むしかないだろう、という風情と同じようなものだというのです。
雪が積もったわけじゃあるまいし、初霜が降りたくらいで花や茎の場所が分からなくなるなんて、この歌はウソっぱちだと明治時代に批判されましたが、それまではこのくらいのウソは許容されていました。
問題を解決することを生業とするシステムエンジニアの立場から言うと、場面を複雑にしないためには、どちらかに寄せるのが常套です。
鹿が山を歩き、人が鳴き声を聞いて、人がさみしいと感じた。これをシステム化しようとするなら、それなりの技術が必要です。鹿と人と、2つのオブジェクトを用意して連携させなければなりません。
人が山を歩き、人が鳴き声を聞いて、人がさみしいと感じた。こちらの方が簡単でいいシステムになります。すべてを人に寄せ、視点を人に合わせて、そこへ鹿の鳴き声だけ取り込むのです。
晩秋を感じるために人は、鹿の近くへ出向かなければなりません。
すべてを人に寄せるのがいいのならば、すべてを鹿に寄せてもいいのではないか。この疑問は当然で、まったくその通りです。
晩秋の奥山には、冬眠間近の熊がいるではないか。用心を怠ってはいけません。
鹿が奥山を歩き、鹿が鳴き声を聞いて、鹿がさみしいと感じた。この解釈に撞着はありません。
結論としてシステムエンジニアの視点から言うと、この歌を、五七調で山道を歩いている人が鹿の鳴き声を聞いてさみしくなったと読むか、あるいは七五調で奥山にいる鹿が他の鹿の鳴き声を聞いてさみしくなったと読むか、どちらかであるべきです。
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